20年目の今、仮面ライダー響鬼を振り返る

20年目の今、仮面ライダー響鬼を振り返る

2025年1月30日

はじめに

仮面ライダー響鬼(ヒビキ)は、2005年に放送された特撮テレビドラマで、平成仮面ライダーシリーズの6作目として制作されました。従来の仮面ライダーシリーズとは一線を画し、複眼の無いゴーグルフェイスのマスクデザインが特徴的です。

この番組に登場する仮面ライダーたちは、太鼓のバチをモチーフにした格闘武器「音撃棒 烈火」や、トランペットをモチーフにした銃「音撃管 烈風」などを使って戦います。

彼らは、肉体を鍛え上げた人間が変身できるようになる「鬼」の戦士で、人々を脅かす魔物「魔化魍(まかもう)」と戦いました。

私にとっての仮面ライダー響鬼

仮面ライダー響鬼の放送から20年も経ってしまいました。

仮面ライダー響鬼と言えば、私にとっては特撮ヒーローの視聴を再開した記念的な作品でもあります。

小学生になってから、幼稚園の時ほど熱心には観なくなり、TVを点けた時にやってたら観るくらいの感覚になっていたので、腰を据えて特撮ヒーローを毎週観よう!と意気込んだのは久しぶりのことでした。

もっとも、視聴再開とは言っても、完全に特撮から離れていたというわけでもなく、ケーブルテレビやスカパー等で過去作品は観てはいました。

もうすこし適切な言葉を使うと、ちゃんと最新作を追いかけようという気持ちになったのが仮面ライダー響鬼だったというわけですね。

それから、2025年現在に放送中の「仮面ライダーガヴ」に至るまで20年間も仮面ライダーを観続けることになるとは、流石に思いもしませんでしたが。

仮面ライダー響鬼の物語

仮面ライダー響鬼は、高校受験を控えた中学生、安達 明日夢(あだち あすむ)が、偶然出会った謎の青年ヒビキに影響されながら、たくましく成長していく物語です。

これまでの平成仮面ライダーとは異なり、仮面ライダー本人が主役なのではなく、仮面ライダーを慕う少年が主人公というところが他のシリーズには無い要素です。

明日夢は学生として私生活を送りますが、ヒビキは仮面ライダーに変身して魔化魍と戦うので、両者の住んでいる世界は異なり、二人が顔を合わせているとき以外はお互いに別々の物語が進んでいきますが、明日夢はヒビキへの憧れを胸に秘めながら、私生活の困難を乗り越えていきます。

明日夢が何かしらの困難に直面した時に、別の場所で仮面ライダー響鬼が戦っている場面がインサートされ、同時並行で物語が進んでいき、響鬼が魔化魍をやっつけた時、同時に明日夢も困難を乗り越えるという構成になっていました。

明日夢が困難を乗り越えると言っても、何か大きな事を成し遂げたり、大きな変化をするという、フィクションらしい行動を起こすわけではありません。

目の前で起こった理不尽な出来事に対して、考え方を改めたり、どのように気持ちを割り切って、切り替えていくか、というような、非常に現実的な、むしろテレビの前の視聴者が体験するような事を積み重ねていく事が明日夢にとっての成長でした。

セリフもなんだか歯切れが悪く、「ヒビキさんといると、自分もなんだかがんばれるような気がして」というような煮え切らないやりとりが多かった印象があります。フィクションなんだから「がんばれるような気がして」じゃなくて、「ヒビキさんがいるからがんばれるんです!」みたいにハッキリ言い切って欲しかったのですが、明日夢を取り囲む周囲の大人たちも「あぁ~、そうだね~」みたいな掴みどころの無い物言いしかしないんですよね。いい大人なんだから、もっとしっかりアドバイスして欲しかった。

当時はそういうのに対して、上手く言葉で言い表せないもどかしさを感じていたんですが、20年も経った今になって観てみると、やっとわかりました。

自分も、ここ20年間くらい仮面ライダー響鬼みたいな会話をしてきました。

明日夢が歯切れの悪い言い方をするのも、多分、自分の気持ちをどうやって言い表したらいいかわからなくて、話し相手に悪い印象を与えないように言い回しを上手く考えているようにも見えます。

大人達の掴みどころの無いアドバイスもそうです。多分、明日夢に対してなんて言えば上手く伝わるだろうか、みたいな、そういうのを咀嚼しながらしゃべってるようなそういう印象を感じます。

でも、いざ自分がヒビキさんくらいの年齢になってくると、そうそう立派にアドバイスなんてできない事に気づきます。

だから掴みどころの無い言い方になってしまう。

だって、自分が上手くできなくて、後悔もしてきたことを、いざ同じ経験をしている少年が相談してきたとして、さも当然のように「これはこうしたらいいよ」なんて言えたもんじゃない。だから、共感こそすれども、ハッキリと言わず、やれるようにやってみて、なるようにしかならない、って遠回しに伝えるしかない。

これはもう、みんなが明日夢の事を大切に思ってるからこそ上手く言えなかったんじゃないかと、ようやっと気づきました。

仮面ライダー響鬼って、仮面ライダーと魔化魍が出てくる事以外は、割と等身大に近い人間ドラマだったんだと思います。

変身ヒーローとしての仮面ライダー響鬼

最初に仮面ライダー響鬼のデザインを見たときは困惑しました。

今まで見た事の無いヒーローのデザインだったし、仮面ライダーっぽくもないので、これが果たしてカッコイイのかカッコ悪いのかもわかりませんでした。

当初の予定では仮面ライダーではない新しいヒーロー番組の企画だったので仮面ライダーっぽくなくなるのは当然なのですが、そういう内情も後になってわかった話ですからね。

実際の放送を観ると、手の甲からトゲが伸びてきて、怪人を刺して攻撃したり、口から火を吹くなど、ちょっと思ってたのと違う技を使うので、困惑ばかりしていました。

必殺技も巨大な魔化魍に太鼓を乗っけてドンドコ叩くというものですから、戦闘のテンポ感もわからなくて。

でも、戦いが終わった後に、顔だけ変身を解いて、明日夢に微笑みかける姿はカッコよかったですね。

CMも温かみがあって好きでした「今欲しいんだよね、君の力が」というのは、テレビの中のヒーローと視聴者の子供の橋渡しになっているというか、繋がりのようなものを感じて、よかったです。

そんなことを言っておきながら、実際は子どもたちが仮面ライダーになるような内容ではなかったので、本当にただのCMだけのフレーズでしたね。

これはおそらくですが、明日夢がヒビキの弟子になって、鬼として成長していく当初の展開を見据えたものだったんじゃないかと思います。

そして、番組も進んでいくと、若者の代表的なキャラクターとも言える仮面ライダー息吹鬼や、新人キャラの仮面ライダー轟鬼など、いろいろなタイプのライダーが出てきて、物語もアクションも賑やかなものになっていきました。

番組後半になって、響鬼はパワーアップ。

全身が赤くなる響鬼紅や、アームドセイバーの能力で鎧を身に着けた装甲響鬼(アームドヒビキ)など。

装甲響鬼を最初見た時は、筋肉を活かした肉体的な響鬼の良さを無くしてしまっているような気がして残念だったのですが、劇中で見たら信じられないくらいのあまりのカッコ良さに一目惚れしました。

敵キャラクター 魔化魍

仮面ライダー響鬼の世界における怪人枠です。

童子と姫という男女一組の怪人が、巨大な妖怪”魔化魍”を育てているという編成になっており、童子と姫を倒した後に出てくる魔化魍を音撃で倒す、みたいな段取りになっていました。

雑魚キャラを倒したらボスキャラが出てくるみたいな感じですね。

これ、当時の仮面ライダーシリーズとしてはかなり新機軸で、それまでの仮面ライダーでも、龍騎のディスパイダーやレイドラグーンなどの巨大モンスター、555におけるエレファントオルフェノク突進態やエラスモテリウスオルフェノク激情態など、CGを駆使した巨大怪人の例はあったのですが、レギュラー枠で毎回のように巨大な敵キャラが登場するようになったのは響鬼がはじめてでした。

ちょっとCGの技術がまだまだ発展途上なので、妙にツルツルした質感で映像的にも浮いてたんですが、しばらくすると慣れましたね。第十七之巻と第十八之巻に登場したオオナマズの胃袋のような変則的なパターンもあったり、夏場になると路線変更で人間サイズの魔化魍も登場するようになって、面白かったです。

想い出のエピソード

第十二之巻 開く秘密

明日夢がひょんな事から、甘味処たちばなの地下に迷い込んでしまう話。

地下には鬼たちが戦いで使う音撃武器があり、それらを眺めているうちに武器開発者のみどりと出会い、ヒビキの過去についていろいろと教えてもらう、という内容でした。

明日夢の前では頼りがいのある大人な雰囲気を醸し出してくれているヒビキも、明日夢と同じくらいの歳のときに、何もできない自分を悔やんだ、というナイーブな一面が劇中で明かされるんですが、なんだかそれで急にヒビキが身近な存在になってしまうのが、この回の面白いところでした。

第三十一之巻 超える父

明日夢が離婚して離れ離れになっている父に会うために、父が住んでいる家に行く、という話です。

第三十之巻から路線変更がはじまり、物語が大きく動き出していくんですが、その第一段階として、明日夢に大胆な行動をさせたかったんでしょうか。

すれ違いや行き違いを繰り返してなかなか会えず、あと一歩で会える、という段階になって、父親が新しい家庭を持っている(=もう自分の父親ではない)事を察して、声もかけずに帰ってきてしまう、というなんともいえないラストが印象的で、多分個人的には仮面ライダー響鬼の中で一番好きな話かもしれません。

物語の終わり

最終回は衝撃的でした。

最終回の一つ前の回で、とても強い魔化魍と戦う相手として息吹鬼が選ばれるのですが、イブキは使命の重さから恋人の香須実に弱音を吐いてしまい、それを陰で見ていたヒビキが一人でとても強い魔化魍と戦いに行ってしまう、というのが導入でした。

「これは一体どうなるんだ!?」とソワソワしながら最終回を観た私。

恐ろしい魔化魍の大群に囲まれ、片手でアームドセイバーを振るいながら、もう片方の手でドンドンと音撃を繰り出す装甲響鬼に被さるタイトルロゴ。

CMを終えてAパートがはじまった瞬間、映し出される”一年後”の文字。

そこには日常を送る登場人物たち。

明日夢はヒビキとは会わなくなり、医者を目指す日々を送っていましたが、ひょんな事からヒビキと再会、魔化魍の襲撃に巻き込まれ、あの頃のように響鬼に助けられ、あの頃のようにヒビキと語り合って幕を閉じます。

なんだか当時は、魔化魍との総力戦をすっ飛ばしていきなり一年後の話がはじまって、すごい置いてけぼりを食らったような感じで、ついていけなくて、ラストのヒビキと明日夢の語らいも、何を言ってるのかさっぱり理解できませんでしたが、20年後の今になると、よくわかります。

まるで人生です。

明日夢が鬼になるサクセスストーリー的な大団円を迎えるわけでもなく、明日夢も鬼を目指すわけでもなく、それでも互いに心のどこかが繋がっている状態で日常が続いていく。

仮面ライダー響鬼の物語は、人生だったんだと思います。

小さいころ思い描いていた姿にはなれなかったり、これが自分の生きる道だと思って目指した道も、何かのきっかけで違うと気づいたり、仲のよかった人ともいつのまにか疎遠になって、そのままかもしれないし、最終回のヒビキと明日夢のように再会して、またあの時のように語り合うことができるかもしれない。

仮面ライダー響鬼は、視聴者のみんなに、君たちの人生はこんな風に広がっていくのだと教えてくれた、人生の先輩であると言えます。

その後の仮面ライダー響鬼

当時は放送終了後に過去作の仮面ライダーが登場する、俗に言うレジェンドライダーみたいな要素は、まだ無かったのですが、響鬼の放送終了からわずか3年後に放送された仮面ライダーディケイドから、過去作品にもスポットが当たるようになりました。

仮面ライダーディケイド

2009年に放送された仮面ライダーで、歴代ライダーの世界を渡り歩いていくという内容でした。

歴代ライダーと言っても、過去のライダーという扱いではなく、同時に存在している並行世界(パラレルワールド)で活躍している現役のライダーという設定でした。

ということもあってか、変身前のキャストさんも本人ではなく、ディケイド用にキャスティングされた別の人でした。

ディケイドが響鬼の世界を訪れるのは、第18話と第19話。響鬼流・息吹鬼流・斬鬼流の三つの流派にわかれていがみあいながら魔化魍退治をしているという設定でした。

初期の平成シリーズでも一番ライダー同士の仲がよかった響鬼で対立構造が生まれるのは新鮮だったので観てて面白かったです。

その中で、流派のいがみ合いに参加せずにひたすらサボっているのがヒビキでした。

なんとなく飄々として、弟子にも気さくに接するところは原作のヒビキと似ているのですが、何もせずにサボり続けるというのがディケイド版の面白いところです。

しかし、ヒビキがサボり続けているのは、鬼の力を制御できずに牛鬼という怪人に変貌してしまうからという理由がありました。

原作の響鬼では、とくにそういった設定は無かったので、ディケイド用に追加された設定なのですが、これもこれで面白い内容でした。

最終的に、響鬼流・息吹鬼流・斬鬼流の若者たちが手を取り合うことで、一つの流派になり、次の時代がはじまる・・・という形で幕引きする素晴らしい回でした。

仮面ライダーディケイドに登場する過去作のライダーたちは、良くも悪くも世界観に大胆なアレンジがされており、原作要素が2割くらいしか残っていなかったりする中で、響鬼は世界観がかなり優遇されていた印象があります。

戦闘シーンも大サービスというか、3つの流派が力を合わせて音撃を行う場面で、ディケイドとディエンドも音撃棒を持って一緒に演奏するという映像が見られ、なんだか響鬼本編よりも面白いんじゃないかと思うくらいによかったです。

仮面ライダージオウ

2019年に放送を開始した平成仮面ライダーシリーズ第20作です。

ジオウの世界における過去作のライダーは、当時活躍していた本人という設定で、キャスティングも当時の俳優さんで構成されていました。

ジオウに仮面ライダー響鬼が登場する回は、EP33とEP34。

桐谷京介とトドロキが登場します。

響鬼本編の正統な続編という感じで、すっかりベテランになったトドロキや、独り立ちした桐谷の姿が見られます。

直接登場しないながらも、名前だけ登場するキャラクターもいたり、響鬼本編の出来事を踏まえた件もあったりで、あの頃の空気感が感じられます。

ジオウのメインキャラクターとの絡みも面白く、主人公ソウゴの同級生が桐谷の弟子になって鬼を目指しているという設定があったり、ソウゴの誕生日をどうお祝いすればいいかで悩んでいるウォズが、太鼓をノリノリで練習したり、トドロキの言葉をヒントに立ち直ったりと、特にウォズが面白かったです。

ジオウは内容を全然覚えてなかったので、この記事を書くにあたって響鬼の回だけ観直したのですが、忘れていたのが勿体無いくらいものすごく面白くて感動しました。

仮面ライダー響鬼とはなんだったのか

放送20周年を迎える、この記事を書くにあたって、断片的にですが仮面ライダー響鬼を一部観返してみました。

あの頃のことを想い出すと同時に、自分はもう明日夢くんの立場ではなく、ヒビキさんの立場になってきたのだと思い知りました。

それは、どんな創作物でもそうです。

シンジ君の目線で観ていた「新世紀エヴァンゲリオン」だって、時間が経って観直せばミサトさんの視点になります。

でも、エヴァンゲリオンではシンジ君が主人公でミサトさんが脇役であるのに対して、仮面ライダー響鬼では、物語上の主人公が明日夢くんだとしても、ヒーロー側の主役はヒビキさんです。

ポジションが異なるだけで、どちらも主役なのです。

そういう意味では、仮面ライダー響鬼は、20年振りに観ることによって、ヒーロー側の視点で物語を追体験できる珍しい番組なんじゃないかと思います。

当時は年頃にひねくれており、新しいものをなかなか受け入れられない高校生でした。

仮面ライダー響鬼も、毎週一応観てはいるものの、「なんだかなぁ」と首をかしげるばかり。

でも、それが20年経った今観直すと、登場人物たちの事が不思議とよくわかるようになります。

きっと、私が仮面ライダー響鬼を受け入れられなかったのは、割と”現実”に近い作風だったから、テレビの中でまで現実を見たくない、というもどかしさだったのかもしれません。

仮面ライダー響鬼は、平成仮面ライダーシリーズ第1作の仮面ライダークウガから数えて第6作目。

アギト、龍騎、555、剣・・・と紆余曲折を経た後、響鬼は平成仮面ライダーの原点に還ろうとした作品だと聞いたことがあります。

ライダー対怪人の戦いをより現実に近づけて描いたクウガに対して、仮面ライダー響鬼は、現実の世界にヒーローを持ってきた作品と言え、現実のどちらから物事を見るか?というところで対照的な作品になったとも言えます。

仮面ライダー響鬼は”ぼくたちには、ヒーローがいる”というキャッチコピーを掲げています。

ここで言う”ぼく”は明日夢くん、そして”ヒーロー”とは、明日夢くんの視点から見た頼もしい大人としてのヒビキさんの事を指すのは勿論ですが、テレビの前の子供たちにとっても、人生の先輩としていろいろな事を教えてくれるヒーロー番組である仮面ライダー響鬼のことなんじゃないかとも思うのでした。